一月の勉強会では「生のOSに立つ」というテ-マで
清水先生からお話をお聞きしました。
デカルトの「我思うゆえに我あり」の哲学は近代文明にとても大きな影響を及ぼしてきたわけですが、近代の科学が発展すればするほど、居場所が急速に失われていくような気持ちに駆られるのはどうしてなのかとよく考えます。
様々な不安は私たちの心に影を落として、痛みや苦しみを生み出していく種にもなっています。
今回のお話に挙げられたスピノザは、このデカルトの少し後に出てきた方ですが、その哲学は、デカルトと根本的に違っています。
コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)が考え方の元ではなく、コナトゥス(存在を本質的に維持しようとする力)を考えの基軸において生の哲学を打ち立ててきたのです。
このコナトゥスという考え方は、場の思想における、存在を継続していこうとする能動的なはたらきとしての〈いのち〉と結びつけて考えていくことが出来ると清水先生は述べられます。
最も、大きな違いは、主体性という問題を取り込んで考えいけるかどうかということ。
ちょっと難しくなっていってしまうので、ここでは割愛させて頂きますが、
少し分かりやすくしてみると、考えの基盤を、モノから出発するのではなく、生から出発するというところがスピノザの哲学の重要な特徴ですから、〈いのち〉と深く関係してくるということです。
今回はさらに西田哲学の矛盾的自己同一と、個体の〈いのち〉時間の自己組織について、「エスカレ-タ-に乗っている時の私たちの在り方」を元に詳しく説明をして頂きました。
かなり難しい内容でしたがとても重みのあるお話となりました。
居場所が生まれるためには、〈いのち〉のドラマが生まれてこなくてはなりません。
身体にもこのことが言えます。
細胞たちの〈いのち〉のドラマが共創されていることが元気ということですね。
そこには、細胞たちにも、その舞台としての身体にも秩序が生まれていなくてはなりません。しかし、その秩序は決して一つ一つ違った細胞たちの個性ある表現を奪ってしまうものでもいけません。それぞれが、違ったままで、そこに生きている意味を与えられるような秩序がそこに生まれているからこそ、身体全体が元気でいられるのです。
私たちは、身体に触れて感じるという実体験から、臨床知を得ていきます。
それは、いわば、脳の知ではなく、身体の知から〈いのち〉を見る眼を養うのです。
そういう意味では、コギトより、スピノザのコナトゥス的な立場の方がずっと共感できるということになるような気がします。
活き活きとした〈いのち〉のドラマが、どのように感じられ、そしてどのように移り変わりながら、続いているのか。
今回はそんな私自身の問いにもたくさんのヒントを与えてくれる内容になりました。