民芸の美から

場の勉強会では、大正時代に民芸の美を掘り起こす運動を展開した思想家で宗教哲学者でもある柳宗悦が取り上げられ、これからの時代の与贈技術を考える議論が深められています。

民芸の美は、作品によって名を残してきた天才たちの芸術ではなく、名もない人々の中で育まれ受け継がれてきた暮らしから生まれてくる美であることが氏の言葉から伝わってきます。

 

柳は「民芸というのは、一般民衆の手で作られ、民衆の生活に用いられる品物のことである。別に名だたる名工の作ったものではなく、いわば凡夫の手になったものということが出来る。作られた品物も普通の実用品で、数多く作られる安ものであるから、品物としては下品(げぼん)のものである。

ところが、それらの品々には極めて美しいもの、健康的なものが数々見言い出された。

いわば大した往生を遂げ、成仏しきった品物があるのである。そうすると、これらの品の美しさは、決して地力に由来したものではないことが分かる。凡夫の作る下品の器に掬いが果たされるのは、どうしても他からの何らかの力が加わっていることを意味する。他力とは何なのか。そう尋ねないわけにはいかぬ。これに答えを送っているのは、浄土門の教えではないか。」(『南無阿弥陀仏』岩波文庫より)

 

名を残さない美しさ。

暮らしの中で自然に生まれていく与贈としての技術の本質を

柳宗悦は見抜いていたのだと思います。

 

そういえば

 

縁を感じるような嬉しい民芸品は

本当に温かくて

手に取りやすくて

身体にいつも近づいていてくれて

良く見ると

こんなところまで丁寧にやってくれていたんだ・・とか

こんな工夫までしてくれていたんだ・・とか

なんだか

いつも心の内側から溢れてくる「ありがとう」につながって

いつまでも大事に使いたくなりますもんね。

 

柳はそこに浄土門の他力の思想の本質を見たんですね。

 

天才の表現ではない

 

ほんとうの美しさ

 

それは与増によってしか生まれてこないですね。

 

作家という「名前」に自力の美だけに心を奪われず、

ほんとうの美しさをみる眼を

民芸の美から私たちはもっと学ばなくてはならないですね。

 

治療技術の核心も

確かにここにありますよね。

 

場の治療はこの民芸美にも通ずるア-トなのですから。

 

芸術にせよ、

治療技術にせよ

 

ほんとうの「神の手」があるとすれば

それは個人の名ではなく、

居場所の〈いのち〉から与えられるところになくてはなりません。

 

名がないからこそ

「神の手」なのですから。

 

名を残さない美しさを

私たち日本人は

何よりも、大切にしてきたのですよね。